掌_
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白馬の王子様が迎えに来てくれる
「そういえば、片岡が実験中に怪我をしたとか……」
岸野は口に含んでいたコーヒーを噴出した。其処には新米の教師しかいなかったので、無礼ではなかったが、其れは誰が見てもはしたない行為であった。
片岡蜜柑、其れが岸野の秘密の彼女の名前であった。岸野は二十五歳と言う若さだが、教員免許を容易く習得してしまった。女生徒の中にはとても人気で「爽やかな好青年教師」というレッテルを貼られていた。確かに表面は爽やかな好青年を装っているが、裏では腹黒く態度が悪い元不良だったりもするのだ。
とある切欠で、本当の自分を蜜柑に見つかり、一週間と言う短い期間を経て、彼等は付き合うことになったのだ。だが、其れは誰にも言ってはいけないことだった。教師と生徒の恋というのは、世間体から見れば禁断であり下品な好意であるのだ。
下の名前で呼ぶのは禁止、学校の外で会うのも禁止、他の生徒よりも贔屓するのは禁止。という規律を二人は作った。
しかし、今の岸野の心の中に余裕はなかった。大切な人である生徒が理科の実験で怪我をしてしまったのだ。例え、心が冷え切った彼でもこの事件となると落ち着きがなくなる。周りの教師達は「汚いですよー」と言いながら彼に冷たい視線を浴びさせる。
「す、すません……。ちょ、ちょっと保健室行ってくるわ」
煙草を口に咥えてそのまま走り去っていった。大柄な岸野でもそのときは何故だか周囲の人達には小さく見えてしまった。薄々感づいていた教師達は其れを噂にしようとはしなかった。
教師が噂を立てるなど前代未聞であるし、下らないことで生徒の成績を落としたくない。それに第一は後の岸野の行動が恐ろしいからである。
そんな教師達の思いも知らないで、岸野は一生懸命に廊下を走っている。途中で生徒に会っても速度を落とそうとはしない。誰かにぶつかりそうになっても謝ろうともしない。ただ、愛する彼女の元へ。
運動をしていなかったためか、直ぐに息が上がってしまった。呼吸を整えてから質素な扉を恐る恐る開けた。すると、其処には養護教員だけがいた。扉を閉めようとしたが、書類を書いていた彼女は下だけを向きながら無愛想に「片岡さんは其処にいますよ」と真っ白なベッドの集団へと指を差す。
「有難う御座います」
と、引き攣った笑いで応答し、ゆっくりと其処へと向かった。無愛想で干渉しない彼女だが、傍観者の立場にいるので学校の秘密はお見通しらしい。しかし、喋りもしないので彼女が知っている秘密は漏れないようだ。 白いカーテンを開けると、堅く瞳を瞑っていた蜜柑の姿があった。其れはなんとも可愛らしく、中学生のようなあどけなさがそこにはあった。しかし、彼女は列記とした高校二年生である。岸野は頬を抓り強引に起こした。
「いたっ。……あ、お早うです。岸野先生」
「お早う」
気がつくと、保健室は蜜柑と岸野だけの空間となっていた。そんな状況だったので暫しの沈黙が流れる。右腕を見ると、其処には沢山の包帯がしてあり、故意的にやられたものだと岸野は察した。
そして、強引に右手を握る。すると彼女は顔を歪め小さな消え入りそうな声で「止めてください」と呟いた。すると、岸野は今までにないような怒鳴り声を上げた。
「やめろじゃないだろう。誰にやられたんだっ、これはっ」
蜜柑は大人しくなった。しかし、一切口を開こうとはせずに貝になってしまった。またもや強引に聞き出そうとしたが、今にも泣きそうな表情に一瞬息を止めた。そうして、手の力を抜いてそっと優しく、小柄な彼女を抱きしめた。
「御免な……。俺のせいだよ、お前が怪我したのは」
「違います。わたしがちょっとドジ踏んだだけですから、ね」
蜜柑は嘆き悲しんでいる子供を慰めるように彼の頭を優しく撫でている。そんな時間が少しだけ続き、岸野はやっとのことで俯いていた顔を上げて彼女の愛しい笑顔を見た。
すると、一つの質問が脳裏を過った。
「なんでベッドになんかに寝てたんだ?」
「えとー、白馬の王子様が迎えに来てくれるって思ってたからです」
赤らんでいる蜜柑の顔はまるで、林檎に真っ赤だ。そんな彼女が愛しくて心の中が満たされつつある岸野はもっと強く彼女を抱きしめた。
蜜柑は顔を歪めなかった。ただ、笑みを浮かべてその幸せな瞬間を受け止めていた。
――そんな昼下がりの平和な一時。
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